ふとしたときに話題になる肖像権、個人的にはその定義や権利性について、通説的理解には疑問が残ります。
例えば、ネットで検索すると、肖像権は「自分の容ぼうをみだりに撮影・公開されない権利」などと書かれています。京都府学連事件や毒物混入カレー事件から引いてきているのでしょう。
しかし、肖像権を「自分の容ぼうをみだりに撮影・公開されない権利」と安易に定義してよいものかは疑問が残ります。
芦部先生は、京都府学連事件について肖像権の具体的権利性を認めたものとしていて(※1)、ロースクール時代に芦部憲法で学んだ身としては気後れしますが、素人ながら少しだけ判例を見ながら検討してみます。
なお、便宜上、記事中では「肖像権」という用語を用います。
※1 芦部信喜『憲法』第6版 2015
肖像権に関する学説
通説的には、「人がみだりに他人から写真をとられたり、とられた写真がみだりに世間に公表、利用されることのないよう対世的に主張しうる権利」という理解だと思います(※2)。憲法13条が根拠になります。
冒頭述べたとおり芦部先生も、京都府学連事件以降、憲法13条を直接の根拠として肖像権の具体的権利性を認めたとしています。
他方で、判例の表現に忠実に、具体的権利までは直ちに導けないという趣旨の立場をとる先生もいらっしゃいます(手元に文献がないため定かではありませんが、光藤先生の著作で拝見した気がします)。
※2 日本弁護士連合会「情報は誰のもの?」基調報告書 2017
肖像権への言及を回避する裁判例
そして、日本の裁判例は基本的に「肖像」について「権利」を認めないように慎重な判決を出す傾向にあると思います(肖像権を明示的に認めたものとしては東京地判平成21年4月14日など)。
いくつかの判例を確認しながら、肖像権の輪郭を考えてみましょう。
なお、なぜ判例が肖像権をストレートに認めないのか、という点は文末で少し触れるだけにして、あくまで判例から読み取れることを整理してみます。
京都府学連事件(最大判昭和44年12月24日)
肖像権と言えば京都府学連事件でしょう。事案の概要はこの後の判例も省略します。
「個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。
これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。」
繰り返しになりますが、芦部先生をはじめ従来の通説では、この京都府学連事件は、プライバシー権の一環としての肖像権を憲法13条を根拠にして認める趣旨だとしています。そうだとすると、ネットでよく見る「自分の容ぼうをみだりに撮影・公開されない権利」というもので間違いではないようにも思えます。
しかしよく読んでみると、有名な「これを肖像権と称するかどうかは別として」という留保付きです。そもそも「憲法13条の趣旨に反し」と憲法上の保障としてランクを下げた表現をしているうえ、その内容も「少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影すること」です。
個人的には、肖像権を認めることと、肖像権をベースにした判断をこれほど丁寧に回避している判決から、憲法13条を根拠にして肖像権が認められるとは言い難いと感じます。実際、私がロースクールでよく使っていた判例集にも反対説が書かれています(※3)。
とは言え、肖像に関する権利または自由がプライバシー権に由来するものであることに異論はありません。
なお、京都府学連事件の「警察官が、正当な理由もないのに」という部分については、論理的には刑訴法197条1項に基づく検討もありうるところですが、これも本記事では割愛します。気になる方は文献(※4)をお読みください。
※3 憲法判例研究会『判例プラクティス』2012
毒物混入カレー事件(最判平成17年11月10日)
私人間の不法行為に関連して肖像に言及したこの判例も欠かせません(イラストについては割愛します)。
京都府学連事件を参照しつつ次のように述べています。
「人は,みだりに自己の容ぼう等を撮影されないということについて法律上保護されるべき人格的利益を有する」
これだけ見れば「やっぱり肖像権はこれでいいじゃないか」と思われるかもしれません。
しかしこれには続きがあります。
「ある者の容ぼう等をその承諾なく撮影することが不法行為法上違法となるかどうかは,被撮影者の社会的地位,撮影された被撮影者の活動内容,撮影の場所,撮影の目的,撮影の態様,撮影の必要性等を総合考慮して,被撮影者の上記人格的利益の侵害が社会生活上受忍の限度を超えるものといえるかどうかを判断して決すべきである。」
容ぼうの承諾を得ない撮影については、いわゆる受忍限度論を用いて不法行為の判断をすると述べています。しかも、結論は変わらないのに原審の判断理由をあえて否定して、この規範を立てています。
もし、容ぼうをみだりに撮影されないことが肖像権として権利性を帯びるなら、このような受忍限度論を採用する必要はありません(※4)。
そもそも「自己の容ぼう等を撮影されないということ」についても権利とは言わず、「法律上保護されるべき人格的利益」と述べるにとどめ、あえて「権利」という表現を避けることで、肖像権を確立させず、権利侵害にはならないよう慎重に構成しています。
※4 斉藤邦史「肖像情報に関する権利利益の諸相」2012
ピンク・レディー事件(最判平成24年2月2日)
肖像権に関連するものでは、最高裁では最新の判決でしょう。
これまでの2件とは少し毛色が違い、「パブリシティ権」というものも登場します(パブリシティ権を明示的に認めた最初の裁判例は、おそらく東京地判昭和51年6月29日です)。
「人の氏名,肖像等(以下,併せて「肖像等」という。)は,個人の人格の象徴であるから,当該個人は,人格権に由来するものとして,これをみだりに利用されない権利を有すると解される」
「肖像等は,商品の販売等を促進する顧客吸引力を有する場合があり,このような顧客吸引力を排他的に利用する権利(以下「パブリシティ権」という。)は,肖像等それ自体の商業的価値に基づくものであるから,上記の人格権に由来する権利の一内容を構成するものということができる。」
このパブリシティ権と、肖像権との関係について、同判決の金築裁判官の補足意見と調査官解説が参考になります(※5)。
金築補足意見
「パブリシティ権の侵害による損害は経済的なものであり,氏名,肖像等を使用する行為が名誉毀損やプライバシーの侵害を構成するに至れば別個の救済がなされ得る」
調査官解説
「本判決は、肖像等の人格的価値が『商業的価値』と『精神的価値』に区分され得ることを前提として、パブリシティ権が肖像等それ自体の『商業的価値』に基づくものであると判示している。このことは、パブリシティ権は、人格の『精神的価値』と『商業的価値』が混在するものではなく、『商業的価値』という人格の財産的側面のみを純化、抽出してこれを権利として構成するものであるから、パブリシティ権は、『精神的価値』に基づく肖像権とは、明確に区別するものである」
人格権説を採用したことで差止請求が可能になっていますが、それはさておき、調査官解説からは、肖像権とも区別されていることが分かります。
また、金築補足意見では、肖像権とは言わないまでも、パブリシティ権とは別個の法的救済があり得ることが述べられています。
※5 中島基至「最高裁重要判例解説」
結局、「肖像権」の中身は?
これまで見てきた判例をベースに、肖像権と、判例が明確に認めているパブリシティ権との違いから、肖像権の輪郭を考えてみましょう。
パブリシティ権
パブリシティ権はあまり難しくはなく、肖像等の「商業的価値」に着目した権利です。
例えば芸能人などは、CMに出演することで商品を魅力的に見せたり、アイドルなどはその肖像等自体が鑑賞の対象としての価値を有すると言えます。
こうした肖像等に基づく商業的価値を保護するのが「パブリシティ権」です。
したがって、基本的には著名人にしか存在し得ない権利です。
なお、ここではパブリシティ権の侵害基準について細かい議論は省略しますが、判例・実務の「専ら基準説」の理解で差し支えないと思います。
肖像権
これに対して、肖像権は、肖像等の「精神的価値」に着目したものです。
また、著名人でなくとも、およそ「人」に適用されるものです。
ここまではほぼ異論はないでしょう。
問題はここからで、前掲最判平成24年2月2日は、肖像を他人に冒用されない権利を有することを認めていると読めますが、あくまでそれは商業的価値についてのみです(つまりパブリシティ権)。
しかしそうは言っても、前掲最判平成17年11月10日は人格的利益として自己の容ぼう等を撮影されない自由を認めていますので、無断で撮影されたり、あるいはその写真を公表されることについては、不法行為に基づく損害賠償請求(憲法13条、民法709条)が可能です。実際に数多くの請求がされています。
ただし、その判断は受忍限度論が基本とされています。
もし肖像権が明確に「自己の容ぼう等をみだりに撮影・公表されない権利」であるとすれば、無断での撮影についての損害賠償請求は、無断撮影が認定されれば直ちに違法性が推定され、公共性や公益性が違法性阻却事由として考慮されるはずです(前掲※4参照)。
まとめ
こうして考えてみると、現時点では「肖像権とは◯◯である」と輪郭を明示することは難しいように思います。
憲法学説は比較的芦部先生に従っているように見えますが、判例を丁寧に読み解くと必ずしも芦部説が妥当とは言い切れないのではないでしょうか。
結局のところ、「肖像権」なるものの実態と限界を知るためには、なぜ判例が肖像権、あるいは肖像等の精神的価値についての権利性を正面から認めないのかを考える必要がありそうです。
これについては、「表現の自由(憲法21条)との調整が必要だから」という点が少なくとも1つあげられると思います。
肖像権は、撮影だけでなく当然に公表も問題になりますが、公表する側としては表現行為の一環として公表する場合があります。肖像権を正面から認めてしまうと、これとの調整が難しくなるのではないでしょうか。
ただ、残念なことに、ここから先を正確に論じるには私の知識が足りず、手元にある文献も足りません。
今後文献を漁って考えてみようと思います。